2018年01月26日

耳から学ぶ 「叡智の教え」5 第一篇 叡智の閃光 第五章 魂のきょうだい -聴きものがたり



耳から学ぶ 「叡智の教え」5 第一篇 叡智の閃光 第五章 魂のきょうだい -聴きものがたり

叡智の教え 再生リスト


「叡智の書」 日向美則 著 京都修道院出版局 発行 より抜粋

第一篇 叡智の閃光

第五章 魂のきょうだい


人は何故生きるか

 多くの霊訓は人類の魂の進化の為に寄与している。人類にとって、第三の聖典群が有益である理由は、次に列挙する疑問に対し、親切に答えてくれるからである。
 「人は何処から来て何処へ去るのであろうか?」
 「生と死の秘密を知っているなら教えて貰いたい。」
 「私は何故、こんな不幸な目に会わなければならないのだろうか?」
 「神は存在するのか、存在しないのか、教えてほしい。」「神は愛か? またそうでないのか?」
 「霊界はどんな構造になっているのか? そこでの生活は?」
 「人は何故、輪廻するのか? 輪廻の終局はどうなっていくのか?」
 「人間は何を目的として生きるべきか?」
 「過去現在未来に渡る永久不変の、人間にとって生活の指針となる真理があったら教えてほしい。」
 「現世の生活が、死後、あの世に於いてどのように評価されるのか? 最後の審判はあるのか?」
 「終末を云う宗教は多いが、終末は果たしてあるのか、ないのか?」
 「佛陀とイエスの相違は何処にあるのか? この聖者方の天に入るについて、どのような信仰と悟りが必要なのか?」
 「何故、人間に業と罪、暗黒の心があるのか? もし神が万能ならば、始めからこのような創造の失敗作の存在を許さず、破壊しておくべきではなかったか?」
 「どうしても、私は知りたい。私達の魂は何故創造されたのか? この魂は過去にどういう生活を送り、また、これからどのように努力して生きてゆくべきなのか? 人間が、人類が、幸福になるためには、何を求め、何を為すべきなのか?」
 「自分一人の救いではない。私の家族、私と同じ地球に生きる人類が救われる為には、われわれはどうすればよいのか? 否、人類だけではない。生きとし生けるもの達が人間と共に幸せに平和に生きてゆける世界が実現される為には、われわれは今後、何をすればよいのか?」
 「すべての民族、すべての国、すべての宗教が仲良く、平和になる為には、如何なる叡智を持つべきなのか? これからの全人類にとって救いとなる教えがあったら、示してほしい。」

 このような疑問が雲のように、際限なく沸き起こってくるとしよう。
 世界中の多くの霊訓がそれらの疑問の一部に答えてくれる。
 それらは確かに、魂の進路について一通りの統一的見解を示してくれるかもしれない。いずれの霊訓の発信者に於いても、魂の旅路に於ける来し方、行く末の全体像というものに、重大な関心を寄せている。それだけに、霊訓の言葉は一般に強圧的なところがなく、謙虚である。
 或る霊訓が佛界よりはるかに低い次元にあるとしても、例えば、ヒマラヤ山脈を想定して、三千米級位の高さから眼下を眺めた俯瞰図であるとして、それでも普通の人間から見れば、想像を絶した高峰の統一的俯瞰図であることには変りがない。四千米級、五千米級といくらでも高い俯瞰図があろう。しかし、エベレストのような、八千米級ともなると、頂上は雲の霧にかすんで見えない。その頂上がどうなっているか、そこに達するルートについても、サッパリ解らない。このような告白は、F・マイヤースにもあった。第三の聖典群も沈黙している。


マイヤースの類魂説

 しかし、マイヤースは、この霊的山脈の中級程度の高さにあって、魂の進化に関する示唆多き俯瞰図を提供してくれる。その一つが、彼の有名な「類魂説」である。
 彼の類魂説を解り易くする為に、その前段階として若干の予備知識を提供しておこう。
 例えば、神智学では鉱物、植物、動物の類魂の説明に当たって、バケツの水とコップの水の関係で示す。バケツの水をコップで汲む。この場合、コップの水はバケツの水の分魂として考えるとよい。コップの水をバケツに戻せば、分魂が母体に戻り合体したことになる。

 このようにして、鉱物、植物、動物は死と再生を繰り返す。彼らが再生、即ち現界に出現するに際しては、母体から一時分離した形式で沢山出現する。云わば、母体の分魂である。それらの分魂は、物質界の法則に従って、やがて衰えて崩壊する。つまり、死の時を迎える。
 しかし、分魂は死んで消滅したのではない。彼は再び親の懐に帰って安らぐ。そしてまた、親元を離れ、現世に出てくる。
 このようにして、タンポポの花は、毎年、春になると咲き出て、夏を迎えるころには親元に帰る。この繰り返しによって、彼らもまた進化してゆく。

 マイヤースによれば、同一人間が輪廻再生を繰り返すという表現はしない。少し霊能力のある者が、よく、自分の前世は何某であった等という。それが大抵、有名人であったりするのであるが、それは類魂の原理から云っても違う。
 釈尊の前世は、或る宗教の開祖であったなどと公言している者がある。マイヤースの類魂の観念から云えば、こういうのはすべて良い加減なウソということになる。同一人物が再生するというのではなく、類魂の本体があって、その分魂、つまり、例えばコップの水がバケツの水から分かれて世に出てきたのである。その魂の本体を指して、それが自分である、私の前世であると称するなら、それはそれで全然見当はずれでもないが、以上のことからして、類魂の説明は三次元的方式では割り切れない。
 例えば、この世に出された七人の魂のきょうだい達は、世界の各地に散っているわけであるが、彼らは肉体も性格も顔付きも各々異っており、全然別人のように見えるだろう。各々の肉親、環境、遺伝子等によって、同一の魂の分魂であっても表面上は違った人格として現れ出ている。
 しかし、もしこの魂のきょうだいが、現界で出会ったとしよう。彼らは無言の内に、云うに云えない親しみと懐しさを感じ、心が一つに融け合うのを実感するであろう。
 読者もまた、過去にこのような体験をされたことがあるのではなかろうか。書物を通じても類魂の懐しさに接することがある。

 一人の人間を生涯に渡って守護してゆかれる専属の天使、即ち守護霊、守護神という御方も、実は被守護者と同魂の先祖、先輩が神によって選ばれ、彼の背後に付けられたのである。彼は決して目立たず、表面に出ず、押しつけがましいところがない。しかし、緊急の際には必ず助け舟を出して、幼い魂の後輩を守る。
 このような本体から分かれた分魂の数は20人、また100人、時として1000人、2000人にもなるという。これ等の分魂は第一界(肉体界)、第二界(中間界、冥府)、第三界(夢幻界)、第四界(色彩界)、第五界(光焔界)、第六界(光明界)、第七界(超越界)の全域に渡っているわけではないらしい。
 何故ならば、例えば100人の低位の階層の分魂が進化して上位に昇る時がきても、一人の劣った落第生がある時は、彼が進化する日迄、99人が待ってやらねばならない。つまり同じ魂のきょうだいであるから、一人でも落ちこぼれがあれば、彼を放って置いて、他の類魂の同胞たちが勝手に上級の天国へ昇ってゆくことは許されないのである。

 それであるから、魂の落第生と雖も一応は安心である。この方式のエスカレーターに乗ってさえいればいつの日か救われる。
 恐らく、魂のきょうだい達がこの世に出てくる時は、同魂の魂の人々が全部集って、出陣式をやったのではなかろうか。
 「がんばれよ、われわれが守っているからな。決して恐ろしいことはないよ。君の人生の峠はこことここだ。しかし、君はこんな風にして、その峠を無事に超えてゆくことになる筈だ」と人生の地図迄示されるだろう。そして専属の守護霊、守護神になられる方々を紹介され「ふつつか者ですが、どうぞよろしく」と頭を下げて天国の門をあとにした筈である。

 天国に戻る日が来た。しかし、あなたには魂のきょうだい達に持参するみやげものがない。おみやげどころか借金を沢山造ってしまった。どうして、魂のきょうだい達に会わす顔があろうか。
 現界に於ける魂のきょうだいは七人である。同じ魂のきょうだいが世界中の何処かに散って各々異なった環境で生活している。彼らは何故、懐かしい同郷の同家族であり乍ら、別れ別れになってしまったのであろうか?
  
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2018年01月15日

耳から学ぶ 「叡智の教え」4 第一篇 叡智の閃光 第四章 第三の聖典群 -聴きものがたり



耳から学ぶ 「叡智の教え」4 第一篇 叡智の閃光 第四章 第三の聖典群 -聴きものがたり

叡智の教え 再生リスト


「叡智の書」 日向美則 著 京都修道院出版局 発行 より抜粋

第一篇 叡智の閃光

第四章 第三の聖典群


神々の助言

 人類は新世紀の霊的夜明けを迎えようとしている。その為には、霊界側の支援や指導が必要である。霊界側でも準備を始められている。霊界が迫ってきている。
 つまり、人類と霊界が協力して、新しい地球新世紀を創造する時代に入ったのである。
 この為に、今、人類の前に沢山の「第三の聖典群」が現れ出ている。これは、二十一世紀の特長と云えよう。
 「それでは、最も霊的次元の高い霊訓の書を推薦して下さい」と云われるならば、私としては次のように答えるしかないであろう。
 「どの霊訓にも他の霊訓に見られない特色、深い啓示があります。霊的次元が高いとか低いとかは主観的なもので、問題ではありません。いずれの霊訓も霊界側から送られた親切な助言や忠告である以上、私達は、死の彼岸の叡智者から発信された啓示として、敬虔な思いを以て取り扱わねばなりません。それらを取り扱うに際しては基本的態度というものがあります。それは、いつの場合でも、佛典や聖書を基準にするということです。それらは、『古代の叡智』を原点とするものです。
 霊訓の価値は、佛典や聖書の言葉をより深く解説し、その真実を立証しているかどうかに関係します。その時、初めて霊訓は、われわれにとって必要、且つ得難き道案内人となるのです。単なる霊界記述なら意味がありません。」

 更に付け加えておこう。
 「人類は今まで、余りにも言葉の宗教に縛られてきました。
 第三の聖典群は、私達に恐らく宗教からの解放をもたらせます。人類は、宗教よりも偉大な『古代の叡智』という世界へ、いずれ復帰しなければならないでしょう。即ち、佛陀、イエスの原点の世界にです。第三の聖典群の多くは、佛陀、イエスの原点の心を伝えようとしています。
 今迄の佛教やキリスト教の宗派の多くは、佛陀、イエスの教えを、自分に都合のよいところだけ取り上げ、或いは自分に都合のよいように解釈して利用してきました。
 しかし、われわれは、第三の聖典群により、佛陀、イエスという御方をもう一度見直し、ここに漸く彼らを先輩ではあるが、人類にとって親しい味方として、その手に取り戻すことができるのです。佛陀、イエスは今迄、宗教という手かせ足かせによって、われわれにとっては遠い手の届かぬ存在になっていました。われわれは、第三の聖典群によって、古代叡智の世界に目覚めさせられるのです。」

 いくら、聖典や霊訓を研究しても、それだけでは霊的進歩はない。
 喉の渇いた人に、水飲み場迄の地図を与えても、本人が歩いてそこへ行く気を起こさなかったら意味がない。更に、水飲み場を見出したからと云って、この水は大丈夫だろうか、と疑って眺めているだけでは渇きは癒されない。水を掬い、口に入れ、喉を通さなければ、目的は達せられない。
 同様に、「古代の叡智」は、それを実践する者にのみ、親しく教えを伝える。ここに、沈黙と実践と悟りの関係が見出される。

 筆者自身、如来の啓示に基づく最初の霊訓の書を発表したのは一九六六年である。それ以来、毎年一冊の割合いで書物を出版してきた。しかし、それ等は読者にとっては、水飲み場迄の案内地図である。『真説死後の書』では、心霊科学の領域に迄、地図を拡げた。また、第三の聖典群の説く霊界と、佛教の霊界各層を比較し、図表に現してもみた。
 佛教の十界説に対し、J・S・M・ワードの霊界七境、神智学の七界、スウェデンボルグの世界観、F・マイヤースの七界等を対比してみた。
 F・マイヤースがG・カミンズ女史を通じて通信してきた霊訓『永遠の大道』は、佛教者として、私自身の受けた霊訓や体験に照らしても、納得するところが多い。

 ここに、私が特に霊訓という概念を当てはめている霊界通信は、概ね魂の指導書といった性格のものである。従って、前記のJ・S・M・ワードの通信などは、心霊科学の面では大いに価値あるものと思われるが、霊訓として取り扱うことはできない。同様に、マイヤースの通信も、霊的にはそれ程高いとは云い難く、従って純粋な霊訓とは云えない。
 ここで霊訓を定義するならば、それは魂の解脱、つまり悟りを得た高級霊からの助言である。しかし、こうした高級霊は普通、人間に親しく通信などはしてこないであろう。従って、名前を名のっていても、彼は或る霊団を代表して、霊団の意志を伝えてきているものと思われる。大抵の場合、終末の警告や人類への忠告、助言等が多い。
 霊訓は、危機に向かっている地球人類に対する類魂の先輩からの忠告である。彼らの気持ちとしては、魂に於いて幼い後輩たちを、このまま見過ごし、放って置くわけにはいかないのであろう。


夜霧の灯台

 啓示霊訓の類の中には、新宗教を起こさせようと、野心を抱く神もあるかもしれない。また、人間の側でも、天からくる教えによって、またまたセクトを造り、新しい伝道、またその結社を組織し、カルト宗教を始めないとは云えない。
 二十世紀は、心霊科学や啓示霊訓の類が、玉石混淆しつつ、人類に覚醒をうながした時代として見ることができる。
 特殊な第三の霊訓群を普遍的聖霊意識の場に帰結させ、佛陀やイエスの目覚めの意識と一つに融合させること、それがこれからの問題であろう。

 普遍意識は、「古代の叡智」に通じる。
 二十世紀人類の無明の闇、相剋、戦争、悲惨、これ等は人々が、「古代の叡智」という普遍意識に目覚める時、ここに始めて夜霧の如く消えてゆく。そして、新世紀の朝日と共に、地球人類の平和が始めて訪れるのであろう。
 真の平和は、機械論的、合理主義的左脳の頭からは生まれない。

 すべての霊訓には証明がない。科学的合理性に欠ける。従って、これを信じる人は信じ、信じられない人には無縁である。また、一人の霊界人から発信せられた霊訓の中にも或部分は納得するけれども、或部分は納得でき難いというところがあろう。それは発信者や受信者の不手際もある。霊訓には恰も夜霧の中で回転する岬の灯台のような趣がある。それは一瞬の閃光となって人間の脳に刺戟を与える。しかし、また直ぐに沈黙の闇に消えてゆく。人間の意識は暗い。しかし、時々は光に照らし出される。

 すぐれた霊訓は魂に光を与える。この時、霊訓は天の啓示である。霊訓の言葉が言霊(ことだま)となる時、霊訓は生きた教えとなる。すべての聖典の重要さはここにある。
 聖典は魂に一種の衝撃を与える。普段読んでいる時には何も感じられなくて、或る日、或る瞬間、言葉が生きて魂に語り出すことがある。

 聖典を読むことは一種の瞑想である。頭で読むのではなく、魂が読むという態度を持続する時に。
 「魂が本を読みますか?」「読みますとも。そうでなければ、どうして霊界から人類へ、こうした言葉がもたらされるわけがありましょう。」

 「眼で読んで、ハートで味わうのですよ。その意味をね。深く深くです。それで、今日味わったことと、明日味わうこととは違います。それで、すべての聖典の言葉は毎日、新鮮な心の響きとなるのです。」
  

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2018年01月01日

耳から学ぶ 「叡智の教え」3 第一篇 叡智の閃光 第三章 沈黙の言葉 -聴きものがたり



耳から学ぶ 「叡智の教え」3 第一篇 叡智の閃光 第三章 沈黙の言葉 -聴きものがたり

叡智の教え 再生リスト


「叡智の書」 日向美則 著 京都修道院出版局 発行 より抜粋

第一篇 叡智の閃光

第三章 沈黙の言葉


消えた佛陀

 霊的真実というものは、元来、沈黙の中にある。それは、書物の中にも、また雄弁な説教の中にもない。それは諸々の霊訓の中にもない。一切本を読まず、人と会うこともない森の中の隠者、修道者、また一人旅をしている巡礼達が、屡々、沈黙の贈物、即ち天のパン、生命の水を与えられた。
 佛陀の沈黙についても、私は曽て次のように述べた。

 「釈迦佛は、不可称不可説不可思議なものについて悟っていた。概念化できないもの、概念にして把握してしまったら最後、忽ちその手から滑り落ちてしまうもの、理解したり説明したりは絶対にできないものについて、釈迦佛は悟っていたのである。
 それであるから、『般若経典』の内容について解説したり、また『全法界が佛の顕現なり』というような、安易な悟りの表現は、これが非常に多いのではあるが、全然、釈迦佛の意を体していない。」

 「釈迦佛は、”四十五年、一字不説”である。けれども、沢山の経典に語られているのではないかと人は云うであろう。それは、こういうことである。
 佛陀は或る意味で四十五年間、沈黙を守り通した。佛陀の沈黙はそのまま真如実相の”空(くう)”の教えとなった。これこそ、即ちあらゆる概念的設定の否定であった。正覚後の四十五年間、説法は行われたのであるが、同時に、実はそれは行われなかったのである。絶対矛盾の真理、それが佛教である。
 空より発したものは空の中に於いてのみ存在し得るからである。世尊の説法は”空”であり、それが即ちこの娑婆に於ける説法の否定なのであり、この故に、それはまさしく究極の救いそのものなのである。」

 「即ち、表では説法の一瞬一瞬が悟りの一瞬一瞬に変化し、裏ではその四十五年は、云わば否定の繰り返されることにより、悟りが絶えることのない真理の光で新たにされていったのである。世尊は、あらゆるタイプの人とお会いになられたが、屡々、相手の質問に答えず、まったく沈黙されていることがあった。この場合は答えることが却って相手を迷わせることになるからであり、語ることが能ではなく、むしろ語ることが、只、相手の誤解を助長し何の利益も与えないからである。
 英国の或る佛教学者は次のように表現している。『世尊が何を語ったかということよりも、何について語らなかったかに、より深い真理の重要性がある。』」

 霊訓の書、及びその解説書の中で、屡々、佛陀やキリストについて比較論及しているものがある。これ等の解説書の中には、たいへん明快で分かり易く述べているものもあるが、しかし、佛陀やキリストの教えは、そのように言葉を以て説明できるものではない。
 従って、そこに表現された佛陀やキリストの教えは、解説者の頭の中にだけ存在するもので、つまり、想像によって造り出されたものでしかない。その解説が頗る合理的、雄弁に語られている程、霊性の真実は、真の佛陀、真のキリストから遠く離れていってしまっている。佛陀やキリストを解説するわけにはいかない。

 多くの西洋の学者や神秘家が、この誤ちを犯している。しかし、そのことは、今日の佛教やキリスト教が、佛陀その人、キリストその人の原点を離れて、後人が自分勝手に佛教を、またキリスト教を創造したということを示唆する。
 佛陀もキリストも、自ら宗教を興し、宗教の宣伝をしたわけではない。彼らは言葉を文字にして残さなかった。彼らの言葉には生命(いのち)の響きがあったからである。彼らは、いずれも、古代から伝えられた叡智の教えについて語ったに過ぎない。二聖者没後の人々が、その教えの片鱗を集めて文字にし、宗教という衣装を着せ、教義という冠を載せ、立派な像を造って祭壇に祀り、或いは簾をかけて神秘めかしいベールの中に真実を押し込んでしまった。


主きたる

 「古代の叡智」は、言葉や概念の中にはなく、沈黙の悟りの中にある。例え、文字で教えが語られていても、真理は文字の彼方にある。
 キリスト教という宗教と、イエスの教えとを混同してはならない。佛教という宗教と佛陀の教えを一つに見てはならない。イエスや佛陀は、宗教という小さなワクの中には入らない。
 もし、頭でその教えを理解しようとするならば、二聖者は、人間、宗教を超えて、恰も遙か遠くの異次元宇宙に光る星の如き存在になってしまう。
 言葉や概念の中に本物はなく、それは屡々、人を誤らせる。そして、今日の宗教一般の特長は、いずれも言葉、概念の宗教であるという点で共通している。

 宗教が、屡々、阿片に例えられるのは、宗教が言葉や概念、演出された雰囲気を以て人間の理性を狂わせてしまうからである。オウム真理教などはその好例といえる。彼らの教団は修行本位に見せかけてはいたが、実際は教祖を偶像化し、教祖の言葉は絶対的であり、教祖の言いなりになっていたのである。理性が麻痺してしまうと、宗教は集団で重大な犯罪に走ることがある。
 言葉という相対世界の中に、絶対の救いはない。宗教には相対的と絶対的の二通りの救いがある。前者は自力の宗教、後者は他力の宗教である。

 世界の宗教の実態を見る時、宗教的対立から生じた暗殺や戦争の多いことに気付く。大抵の宗教が流血の歴史を持っている。
 しかも、いずれの宗教も、神の御加護を説き、精神的、或いは肉体的物質的救いを謳い文句にしている。善良な人々は、天国を信じ、宗教の宣伝文句に魅かれて羊の仲間入りをする。
 宗教の中には、一度(ひとたび)その門に入ってしまったら、恰も蜘蛛の巣に引っかかった蜻蛉のように、じたばたしても出るに出られずということになる。或種の宗教は人を脅し、心を操る。

 宗教が人々の心に平安や希望、喜びをもたらすのも事実である。時として、癒しの奇蹟さえ見せる。しかし、この世的救いをもたらす宗教はあっても、魂の救いをもたらす宗教は殆どない。元来、佛陀やイエスは、魂の救いを得させる人として世に出たのであったが、今日の佛教やキリスト教には、教えの残影はあっても魂の救いがない。

 言葉、概念で捉えることのできないものについて知ることを悟りと云い、またその人を覚者と呼ぶ。佛陀やイエス・キリストは覚者であった。覚者であり、言葉で真実を伝え得ないに拘らず、尚言葉で以て大衆に語りかけた。水飲み場迄の案内人になることはできるが、水を飲むのは大衆の自由意志である。また、天国、彼岸への架け橋を示してみせることはできるが、その橋を渡るのは大衆の自由である。佛陀にしても、イエスにしても、この点に御苦労があった。当時としては、一部のエリートしか、その水を飲まず、その橋を実際に渡り得なかったからである。ここに、佛陀の嘆き、イエスの嘆きがあった。多くの大衆は笛吹けど踊らずであった。
 しかし、今、ミロクの世になって、事情は曽てと異なる。佛陀、イエスの時とミロクの時と、根本的に異なるものがある。佛陀、イエス の時は一部のエリートだけが救われたが、ミロクの時、即ち今は、一部ではなく万人が救われる時にきている。

 万人の魂の救いはミロク佛によって既に成就されている。「主が戸口に立っていられる」とヤコブが云うように、ミロク佛は直ぐ戸口に立っておられる。その意味はドアを開けさえすれば、主は直ぐに入ってこられる、という意味である。ドア、即ち我心のドアである。我心のドアを開くものは信仰である。信仰は決断である。その決断をうながし、決断の誘い水となったのが、佛典、聖書であり、また本書である。佛陀やイエス・キリストが言葉の武器を用いたのは、人々に決断という行為を迫ったということである。
  
  
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2017年12月24日

耳から学ぶ 「叡智の教え」2 第一篇 叡智の閃光 第二章 魂の変容 -聴きものがたり



耳から学ぶ 「叡智の教え」2 第一篇 叡智の閃光 第二章 魂の変容 -聴きものがたり

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「叡智の書」 日向美則 著 京都修道院出版局 発行 より抜粋

第一篇 叡智の閃光

第二章 魂の変容


人類の進歩と未来

 樹を見て森を見ずと云う。反対に森を見て樹を見ずという。
 これは人間が陥りがちな知識の偏狭性や独断、押しつけがましい主義主張に対する教訓である。
 特に、宗教や哲学、心霊科学等、人間の精神面に関わる部門は元より、現代に於けるあらゆる諸科学、特に医療部門、教育部門に於いて、この種の独断と偏見が顕著にみられる。

 今の地球人類は進歩向上どころか、自我至上主義と、及び右脳と左脳のアンバランスから退化しつつある。少し精神世界に関心を抱く人ならそのことを認めざるを得ないであろう。
 地球及び人類の未来が悲観的絶望的と云い切っているわけではない。しかし、もし新しい地球、新しい人類の未来があるとしたなら、それは多分統合の時代であろう。これ迄の地球及び人類が対立と分離の時代であったとするならば、新しい時代は人類と地球の協調時代、そしてあらゆる分離し対立していたものが一つの叡智の元に統合され調和する時代へと移行してゆくのであろう。そうでなければ、人類の進歩と永生は望めそうもない。

 宗教の部門一つとってみても、余りに対立や相剋が多すぎる。けれども、一部では希望的観測もある。例えば、近年、キリスト教聖職者、修道院の修道者達が禅に関心を持ち、実際に坐禅を修する人々が多く現れている。この現象は、彼らが信仰と共に、自己の内なる真我に目覚めようとする霊性本能の現れであろう。禅が、彼らの信仰にとってどれだけプラスになるかは別問題として、このように、禅に関心を抱くことは、それだけ彼らの信仰的視野が広くなるということである。
 一方で、佛教徒にとっても聖書は日常生活の規範、信仰生活の指針となる点が多い。例えば、ルカ伝「山上の垂訓」と云われる個所、また「ヤコブの手紙」の五つの章などは、恰も佛陀の言葉を聞いているようにさえ思える。ここには、キリスト教とか佛教とかの宗教を超えて、人類の先達が残した偉大な普遍的「古代の叡智」を見出す思いがされる。

 われわれは、人類の精神的財宝の代表として、佛陀の教え(経典)やイエス・キリストの教え(新約聖書)その他を共有しているが、また他にも「古代の叡智」の多くの財宝に恵まれている。それ等は枚挙に暇(いとま)がない。
 心霊科学や神智学、人智学等も、科学的合理的なものしか受けつけないという人はともかく、少しでも精神的世界に探究心のある人にとっては、霊的視野を広げてくれるという意味で興味深いものがあろう。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、それらのものに余りのめり込み、踏みとどまるな、ということである。それらが恰も樹を見て同時に森を見ているかのように見えても、それは違う。それは或領域の霊的次元から見た霊的俯瞰図であって、もっと高位に立って眺めた霊界大森林の俯瞰図もまた無限にある。


言霊(ことだま)の響き

 古今東西の大師達の多くの霊訓、心霊科学、神智学、人智学などの文献、エドガー・ケーシーのリーディング、その他の霊的文献の多くが、尨大な霊的知識を提供している。それらは、聖書にも佛典にもない霊界の展望を与えてくれる。
 しかし、万巻の霊的文献を読破し、霊的知識に於いて世に比類なき智慧を得たとしても、尚彼は魂の救いに関する道案内人となることはできない。
 例えば、喉の渇いた人を水飲み場迄連れていったとしても、実際に水を飲まなければ、渇きは癒されないのである。
 そして、世に行われているすべての霊的文献が魂の救いには何の役にも立たぬと云ったならば、驚く読者があるかもしれない。霊に関しては学べば学ぶほど空しくなる。知れば知るほど魂は渇く。

 信仰よりも知識が先だ、と述べている人もある。余りに盲目的狂信的な信仰やその宗教団体が多い所から見ると、信仰よりも知識を優先せざるを得ないかもしれない。だが、その知識とは一体何なのか? 何を以て宗教の正邪真贋を見分けようというのであるか? 何を基準にして宗教を評価しようとするのであるか? 知識は宗教、信仰に優先するのであるか?

 悟りの世界にあっては頭の知識では何の役にも立たない。それでは人の魂を救うことはできない。例え、いざりを立って歩かせ、病人を直ぐに癒す奇蹟を見せたとしても、彼が人の魂を救うことができなければ、彼は単なるこの世的心霊施術者に過ぎない。
 この種の奇蹟は多くの宗教に於いて?、見受ける。低位の霊界次元に於いてもこの種の神通力は得られる。掌から宝石や貨幣を出したとしても、それだけのことである。

 本書は読者に頭の霊的知識を提供することを目的としてはいない。
 知識は信仰に優先するのではなく、信仰は知識に優先する。信仰はまた、行動の中にあり、行動は信仰の実在を照明し、且つ悟りの契機ともなる。しかし、これも問題は単純ではない。
 それでは、如何に行動するか? ここに、知識が必要になってくる。その知識は単なる頭の知識ではない。魂に響くもの、ハートを直撃するもの、魂の発火点となる知識である。
 それは、悟りから出た知識であり、悟りの言葉は、つまり言霊(ことだま)の響きを持つ知識である。
 こうして、知識と云っても一概には云えない。
 信仰を知識に優先させることも、知識を信仰に優先させることも、一概に断定的に云うことはできない。
 多くの場合、人間の言葉や概念は、恰も水中の光線が曲がって底に達するように、真実が少しずつずれて脳裏に描かれる。
 読者は何事に於いても、特に霊的な事柄に関しては決定的、断定的な態度は避けるべきである。人間の頭と言葉は霊的真実をねじ曲げるのである。

 宗教的真実は言霊(ことだま)の中にある。言霊(ことだま)というのは言葉そのものが生命の響きを持っている場合をいう。例えば、イエスが跛(びっこ)に「立って歩け」と言った時、言葉は同時に力であった。このように、言葉が生命を持つ働きをする場合がある。佛陀の場合にもそれがあった。そして、世の中のあらゆる霊訓にしても、それが真に大師から発せられた生命の言葉であるならば、読者の魂に響き、魂に変容をもたらす何かの働きが現れる。
  
  
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2017年12月19日

耳から学ぶ 「叡智の教え」1 第一篇 叡智の閃光 第一章 古代の叡智 -聴きものがたり



耳から学ぶ 「叡智の教え」1 第一篇 叡智の閃光 第一章 古代の叡智 -聴きものがたり

叡智の教え 再生リスト


「叡智の書」 日向美則 著 京都修道院出版局 発行 より抜粋

第一篇 叡智の閃光

第一章 古代の叡智


眠れる神性

 宝石店のショーウインドウに、一個の大きなダイヤが置かれている。頗る魅力的で、しかも安い。しかし、それは鑑識者が見れば、イミテーション・ダイヤであることは明らかである。そのことを知っていて買う気になるだろうか。それでも欲しいという人はあろう。
 宗教も同様である。日本人は頗る大らかで、二つ以上の宗教を持ち、東の方を向いて東の神様を拝み、踵を返して西の神様を拝むと云ったようなことは普通のことである。四方拝と云って、東西南北各々の方角の神様を拝む習慣もある。
 しかし、ともかく、霊性的宗教に関して云えば、贋物か本物かを見分ける叡智の眼を持つ必要がある。叡智が欠けると邪教に瞞され易い。特定の宗教を選択したり、宗教の勧誘を受けて迷っている時に、叡智の眼があれば、迷わず決断することができる。

 宗教の多くはセクトであり、セクトは他と自分の宗教を対立的に見るので、必ず争いを誘発する。
 それでは、セクトを超えた宗教の教えがあるのだろうか。「古代の叡智」と云う教えがそれである。
 人類は、佛陀やイエス出現以前のもっと遠い昔から、叡智の教えを受けてきた。その教えの片鱗は、古代インドや古代ギリシャ、古代エジプトにも見られた。もっと古くは、多分、アトランティス大陸の時代にも見られたであろう。それは、すべての哲学思想、宗教思想の遠源である。
 曽てその教えは、決して神秘めかしいものでも、難解なものでもなかった。
 「古代の叡智」の師は、万人の中に実在する神性について語った。人類の目的、魂の進むべき方向、輪廻の目的は、内なる神性の開顕にある、と。
 
 「古代の叡智」は、言葉や文字を用いて語られたのではなく、人間の内なる神我(霊我)が自ら啓示したのである。古代の人々は、その意味を直感によって理解した。
 父なる神は、御自分の分霊、つまり神我を、人間の中に宿し給うた。人は、輪廻を通してそれを自覚し、魂を進化させ、やがて隠れた金塊を見出すように、父の分霊、神我を発見し、それを取り出す。そして、父なる神と等しい創造力を発現させる。
 「古代の叡智」は、早くから、このことを人類に告げてきた。

 人類は好むと好まざるとに拘らず、「古代の叡智」によって導かれ、輪廻させられ、魂を育てられてきた。例えば栗の実が熟せば、外殻の毬は自然にはじけるように、人間の魂もいずれ肉我、自我の外殻を脱落させ、中から霊我を誕生させる。イエスや佛陀の元の教えの中にも「古代の叡智」は受け継がれていた。しかし、今日のキリスト教や佛教には、その元の教えの生命はない。


叡智の影

 「古代の叡智」は今、何処に見られますか? 或る人々は佛典や聖書の中に「古代の叡智」という生きた真理の言葉を見出すかもしれない。また、或る人々は、神智学や人智学という著作群の中に、それを指摘するかもしれない。しかしそれは此処にある、彼処にあるというものではない。それは、あなたの中にある。しかし、今は消えている。

 「古代の叡智」の影、その片鱗はあちこちの本で見出すことはできよう。
 多くの神秘家、瞑想家、予言者達、ヒマラヤの大師方、また霊界より通信せられた多くの大師方の霊訓が、その消息について語っている。
 それ等は、天啓に満ち、人類の魂の進化とその救いに関して普遍的原理の数々を示しているように見える。

 ここでは漠然とした云い方しかできないが、こうした書物群を私は「第三の聖典群」と呼ぶことにしよう。
 「古代の叡智」を伝え、人類の魂の進化と救いに関して述べている聖典の第一は佛典であろう。第二に聖書を挙げよう。これには勿論、異論もあろう。ところで、以上の聖典に比肩し得る「第三の聖典群」が存在する。
 「それは何処にありますか? それは何(ど)の本ですか?」と人は尋ねるであろう。
 そうすると、私は答えに窮してしまう。佛陀の聖典、イエスの聖書と同格か、それに近い書物の名前を、うっかり挙げるわけにはいかない。世界には、私の未だ見聞したことのない未発見の「第三の聖典群」が他に沢山あるかもしれない。それに、私の接した「第三の聖典群」と云っても、ごく僅かなものである。

 人によっては、ユダヤ教の聖典や神道の古典の中に、またコーランや古代インドの宗教聖典などにそれを見出すかも知れない。或いは古代ギリシャの哲学思想に、或いは中世の修道僧の言行録に、或いはロシアの一順礼者の回想録に、或いは近代の神秘家スェデンボルグやブラバッキー女史、シュタイナー等の著作の中に、或いはヒマラヤの大師方の言行録を記した書物の中に、人はそれを見出すかもしれない。
 また、多くの心霊書がある。「第三の聖典群」として挙げるわけにはいかないが、人類の魂の進化とその目的について述べた書物の一つに、心霊家F・マイヤースの『永遠の大道』(G・カミング著、浅野訳)を挙げることができる。

 マイヤースは霊界七界の中、自分が第四界(色彩界)に迄進化したことについて、霊界から報告してきているが、第四界と云えば霊界のランクとしては中級どころである。例えば、八千米級のヒマラヤの峯で云えば、四千米位の高さから眼下を俯瞰した魂の地図が前記の『永遠の大道』と思えばよい。人類の魂の進化の道程、及び魂の帰趨、その終着駅について霊界側からかなり詳しく述べている。
 しかし、マイヤースの第四界以上の霊界から「第三の聖典」を残された大師方も沢山いられる。魂の進化については限りなく、学ぶべきことが多い。

 しかし、本書にいう「古代の叡智」とは、人が言葉や文字で伝える教えではない。それは、佛典や聖書の中にも、第三の聖典群の中にも見出せない。一見して、恰もそれが述べられているかのように思えるのは「古代の叡智」の影である。影であるから実物ではない。従って、それを把握することはできない。
 「古代の叡智」は、万人の中に実在する神我であるが、多くの人は、それに気付かない。それは、ずっと前から、いつでも、人類に語りかけ、囁きつづけてきた。彼の名は霊我(神我)である。多くの叡智が、この内なる霊我から生まれた。生きた真理の言葉として、われわれは、霊我の沈黙の言葉を聞いてきたのである。
  
  
posted by 聴きものがたり at 21:08| 叡智の教え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする